ガイストスキャナー


アクアリウム

2 M.G.S


車窓の向こうでは風が吠え立てていた。家を出てからずっと闇が追い掛けて来ている。それは見なくてもわかる。
ジョンは固く目を瞑ると膝の上で拳を握った。

(闇はぼくを狙っているんだ)

彼の両脇には、金髪の男と若い黒人の男が座っていた。いずれもCIAの捜査官だ。
「どうした? 何故黙っている? 俺達が怖いのか?」
黒人の方が話し掛けて来た。ジョンは首を横に降った。
「ガム食うか?」
「いいえ。結構です」
少年は頑なに拒んだ。男は軽く口笛を吹いて差し出したガムをポケットに戻した。
「余計なことをするな。被疑者に物を与えるのは違反行為だ」
金髪の男が咎める。注意された男は大袈裟に首を竦めて明後日の方を向いた。

車はジョンの知らない道を進んでいた。グレイがかった四角い建物が並ぶその影に闇の風は潜んでいる。
(どこまで行くんだろう)
軋むタイヤと軋轢音。それはまるでガイストが歯を打ち鳴らし、笑っている声のようで恐ろしかった。
(いやだ! 来るな!)
彼は心の中で叫んだ。
(ぼくを追って来るのはやめて! お願いだから、ぼくを自由にして……!)

突然の急ブレーキ。眼前に現れたガイストが彼を抱き締めようと細い手を伸ばしてきた。
「……!」
ジョンは思わず悲鳴を上げそうになった。

「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
再び黒人の男が話し掛けて来た。
「大…丈夫……。でも、気分が悪い。少し窓を開けてもいいですか?」
少年が訊いた。
「いいだろう。ウーリー」
金髪の男が顎をしゃくって指示した。言われた男は黙って窓を開けた。夜気は冷たかったが、新鮮な空気をたっぷり含んだ風が車の中を吹き抜けた。ジョンは少しだけ酸素を補給してほっとした。

「酔ったのか?」
ウーリーが訊いた。ジョンは素直に頷いた。
「そういう時は親指を強く掴んで深呼吸するんだ」
男が言った。
「それっておまじないですか?」
「ああ。だが、すごくよく効く。やってみな」
「うん」
彼はウーリーに言われた通りに実行した。

「どうだ?」
「はい。少し楽になった気がします」
ジョンが言うとウーリーはがははと笑った。
「ジョン、気分が悪いなら少し休憩しようか? そいつのことはあまり信用しない方がいいぞ。ほら吹きなんだ」
金髪の男が言った。
「ほら吹き? でもぼく、本当に少しよくなったんです」
ジョンが言うとウーリーも言った。
「みろ。ちゃんと効果があったんだ。ほらじゃないさ」
少しだけ車内の雰囲気が明るくなった。が、運転席のデニスがバックミラー越しに睨んだ。

「無駄口を利くな!」
その男の周りにも闇の風があった。だが、それは死神を模したそれではない。
憎悪を伴った闇の亡霊……。
ガイストの中には人間にとりついて業を成すものがいると説明されていたのを思いだした。
(それじゃあ、あの風が……)
ジョンは闇の風にもいろいろな型があるのだと知った。

(でも、人間にとりついた風は、人に何をさせるのだろう)
凍てついた氷のように冷たいデニスの青い瞳。
(人は闇の風に侵されて、いつかガイストに心を喰われてしまう……)
そうして、心を病んだ人間は、感情を失くし、非情になって行く……。
歴史上の多くの悲劇がそういった者達のせいで繰り返されて来たのだ。

――この件に関しましてはいずれマグナム中佐にもお話を伺うことになると思います

(パパ……)
闇の風の審判は果たしてどんな結果を招くのか。
その力に、人は抗うことができるのか。
不安だらけの夜だった。
(けど、ぼくは負けない。ぼくのせいでパパやママを不幸にするなんて絶対にいやだ!)


建物の中は静かだった。幾つかの部屋には電気が付いていたが、聞こえるのは空調やコンピューターの独特なノイズとキーボードを打ち込む音。そして、通路を歩む自分達の靴音だけだった。

「ここだ。入りたまえ」
デニスがドアを開けた。
「はい」
部屋にはテーブルと椅子が三つ。彼らを映す鏡はマジックミラー。男に促されてジョンは奥の椅子に腰かけた。手前にはデニスと金髪の男が座った。ウーリーならよかったのにとジョンは思ったが、彼は通路を折れて、別の部署へ行ってしまった。

「では、早速だが、君に幾つか質問がある。念のため、ここでのやり取りはすべて録音させてもらう」
デニスが言うと、金髪の男が録音ボタンを押した。
これではまるで取調室の尋問だとジョンは思った。が、質疑の内容が確信に触れると、彼らにとって、自分は明らかに容疑者扱いされているのだと思い知った。

「では、君はあくまでも偶然コンピューターが国家防衛治安局のコンピューターに接続し、重要機密を手に入れたと言うんだね?」
「ネットに公開されている情報がまさか重大な国家機密だなんて思わなかったんです」
ジョンは困惑した表情で答えた。
「それは公開されていたのではない。君が意図的に治安局のセキュリティを破って侵入し、暗号とパスワードを解いて持ち出した。違うかね?」
「違います」
ジョンはきっぱりと主張した。
「ぼくはただ、ゲームに使うデータが欲しかったんです。だから、いろんな国の公開されている情報を集めて、ぼくのゲームのデータに上書きして、最新のシュミレーションがしたかったんです」
ジョンが説明した。

「そうやってカモフラージュし、君はテロリストに情報を流したのか」
デニスが鋭い目で詰め寄る。
「違います!」
ジョンは真っ直ぐ男の目を見返して言った。だが、当のデニスは意に介さない。
「なかなか巧妙な手口だ。ネットに無料公開しているゲームに組み込むなんてね」
「ぼくは知らない。いや、知らなかったんです。あれが本物の情報だったなんて……」

「では、質問を変えよう。Legie(レギー)という男を知っているね?」
「レギー?」
確かにその名前には見覚えがあった。しかし、その人物が男であるか女であるかさえ、ジョンは把握していなかった。
「その人は、時々ゲームについての感想をくれるユーザーの一人です。でも、ぼくはそれ以上のことは何も知りません」
「レギーは、我が国に敵対するテロリスト集団、レッドウルフの中核の一人だ」
「あの爆弾テロの……?」
つい先日もテレビのニュースで報道されていた。眼前に広がる闇を払えずに、彼は怯えた。
「ぼくは……」
それは決して自分の意思ではない。それを理解して欲しかった。

「ぼくはただ……」
しかし、デニスは、少年が弁解するチャンスを与えなかった。
「お父さんに頼まれたんだね?」
「え?」
意外な言葉にジョンは思わず相手の目を見つめた。どこまでも冷たく透ける青い瞳の奥を……。
「こんな大それたことが君にできる筈がない。そうだろう?」
男は薄い唇に微かな笑みを滲ませ、指先でとんと机を叩いた。

「どういう意味ですか?」
唖然としている子どもに、デニスは柔らかい口調で言った。
「私が思うに、君は恐らく利用されただけだ。もしそうなら、君に罰が及ぶことはない。君はむしろ被害者だ。我々の手で手厚く保護してあげよう。わかるだろう? 君は賢い子のようだからね」
男の影が広がって、覆いかぶさるように威圧した。
「ぼくは……」
ジョンは思わず身体をうしろに引いた。固い背もたれに脊椎が触れる。幼い頃、何度も打たれた脊髄注射の痛みを思い出して彼は顔を顰めた。

「さあ、正直に言ってごらん? 保安局へのアクセスの方法とパスワードを君に教えたのはスティーブ R マグナムだね? そして、戦略ゲームソフトの名を借りてネットに公開し、テロリストとコンタクトを取ったのも……」
畳み掛けるように男が言った。
「違います!」
ジョンは叫んだ。が、男は容赦がない。
「それともう一つ。実際の情報の受け渡し方法はどうしている? ゲームに組み込まれた情報だけでは不完全だからね。他にも持っているのだろう? コンピューターには君の足跡が刻まれている。君が接触したすべての記録が……。隠しても無駄なんだよ。だから、言うんだ。君はお父さんを庇っているんだ。違うかい?」
「違います!」
ジョンは重ねて否定した。

「みんな、ぼくがやりました。それが悪いことだなんて思わなかったから……。パパは何も知らないんです。本当です。だから、パパを悪者にしないで……」
捜査官の男二人は互いに顔を見合わせた。
もし、少年が言うように偶然、もしくは簡単にセキュリティが破られたとしたならば、それは国家の一大事だ。マスコミがこぞって飛び付く大スクープになるだろう。そんなことがあってはならなかった。国の大切な機密の防衛システムに重大な欠陥があったとは……。国の威信に懸けて認める訳には行かなかった。

金髪の男が時計を見てデニスに合図した。
「そろそろ時間です」
「よし。今日のところはこれでおしまいだ。未成年に対しての事情聴取の時間は限られているからね。続きはまた明日にしよう」
信じてもらえていないことを知って、ジョンはがっかりした。
「それなら、今日はもう家に帰ってもいいですか?」
「いや、残念だが、事情がはっきりとするまでは、君にはここに泊ってもらう」
「……」
期待はしていなかった。それでも男の返答に彼は少なからず落胆した。母が作る温かいスープが飲みたかった。それに、バルドーラの大きな首にすがって、思い切り泣きたい気分だった。ここには誰も味方がいない。ふと見上げた四角い蛍光灯の白い光が滲む。その光の向こうに淡い電飾の明かりが溶けて行った。

「部屋に案内しよう。来なさい」
デニスが言った。
「……はい」
少年は椅子から立ち上がると男の広い背中を見た。僅かに眩暈がして足元がふらつく。
「大丈夫か?」
それを見て、金髪の男が訊いた。
「はい」
そう返事をしたものの、鼓動が速く、通路がやけに長く感じた。前を行く男の影はやはりガイストの影を引きずっていた。

(どうして平気なんだろう。この人は闇の風が恐ろしくはないのだろうか。それとも、ぼくが怖がりだから……?)


部屋には何もなかった。ベッドと添え付けの洗面台。それと、ドアの近くに灰色のインターホンが一つあるきりだ。
「用事がある時にはこれで連絡しなさい」
男が言った。
「はい」
「明日は7時に朝食を運ばせる。では、おやすみ」
そう言うと男は行ってしまった。

ベッドに置かれていたパジャマは大人用で、彼には大き過ぎた。
「どうしてこんなことになってしまったんだろう」
ジョンはベッドに座ると、膝を抱えて途方に暮れた。学校の教室や病院ではいつも一人になりたいと願っていた。しかし、それはこんな風にではない。無理に家族や社会から離されて、隔絶された部屋に押し込められるなど、意に反することだ。
(こんなの、ちっとも自由じゃない……)
暗い深海に閉じ込められた魚のように、彼はただじっとそこで動かずにいた。

それから間もなくノックの音がしてあの黒人の男が入って来た。
「起きているか?」
「はい」
慌てて顔を上げたジョンが答える。
「何だ、泣いてたのか? ま、無理もないけどな」
「いえ、ぼくはただ……」
言い訳しようとする少年の声を遮って、ウーリーが持って来た紙袋を差し出した。

「腹が減ったろう? ハンバーガーとポタージュが入ってる。食え」
「ありがとう。あの、これをあなたが……?」
「いや、お袋さんからの差し入れだ」
「ママが来たの?」
「おっと、いけねえ。里ごころが付いちまうとまずいな」
男はとぼけたように顔を背けた。が、少年がじっと見つめたまま黙っているので、ぽりぽりと頭を掻きながら言った。
「実は、さっき弁護士と一緒にここへ乗り込んで来たんだ。おまえに会わせろと言ってね。お袋さんはおまえを連れて帰るつもりだったらしいが、できないと知るとこれを差し入れてくれと持って来たのさ」

「ママが……」
袋の中身はまだ温かかった。ジョンはそれを見つめているうちに悲しくなった。
「そんじゃな。冷めないうちに食えよ」
そう言うとウーリーは片目を瞑って出て行った
「……ありがとう」
ジョンはそのまましばらく動けずにいた。


翌日には、また違った形で尋問が行われた。
「もしも君が言うように、すべてが偶然なのだとしたら、それはとんでもない奇跡的な確率だ。君がどうやってそこに辿り着いたのか、今ここで再現できるかね?」
デニスが言った。目の前に、コンピューターが置かれていた。
「君がいつもしているように、主要国の軍事データを集めて見せてくれないか?」
「そうしたら信じてもらえますか? ぼくが言っていることが正しいって……」
「ああ、約束しよう」
「ならば、ぼくやってみます」

部屋にはデニスの他にコンピューターの専門家2人が同席していた。昨晩、少年のコンピューターを解析した者と軍のセキュリティーを担当している者だった。ジョンは他人に見られるのは苦手だったが、そうしなければ疑いが晴れないのだ。彼は早速操作を始めた。

それに、一度コンピューターに向かうと、もう周りの景色は彼の視界から消えた。
モニターの中の情報は高速で移り変わった。一瞬も乱れずに少年の指先はキーボードを叩き続ける。

「速い……それに……」
専門家達は驚嘆した。
いとも簡単に破られて行くセキュリティー。少年の手に掛かったらどんな複雑なガードも役に立たなかった。

「信じられん……」
昨夜のうちに変更したパスワードでさえ、ジョンは何の躊躇いもなく解いて行った。
「君は今、たった三度目にしてパスワードを引き当てたね。何故わかった?」
「何となく……」
「何となくだって?」
デニスが声を荒げた。子どもが怯えるのを見て、専門家達が制した。
「怖がらなくていい。何故そう思うのか教えて欲しいんだ」
「わかりません。でも、空欄に文字が浮かんで見えるような気がするんです。それに、文字列の組み合わせはパターンだから……」
彼らは感嘆の声を漏らした。

少年は彼らが見ている目の前で国内外を問わず重要軍事施設16ヵ所のセキュリティーを突破して内部に侵入、情報の中枢へとアクセスし、難なく機密データを抽出して見せたのだ。そのうち国内の4ヵ所については、昨夜のうちにパスワードやセキュリティのシステムそのものを変更したばかりだった。

「もういいよ。ありがとう。君の実力は十分に理解した」
「疲れただろう。部屋で休憩するといい」
彼らは少年を丁重に扱った。そして、ジョンが部屋に戻ると大人達は議論し、この天才ハッカー少年を巡る争奪戦が始まった。

「あの子は素晴らしい才能を持っている。その実力が我が軍には必要だ」
「今すぐにでも実践力になる。これからはいかに的確な情報を掴んでいるかが鍵になる時代だからな。あの子は我々情報部の宝になるだろう」
「勝手なことをおっしゃられては困りますね。ジョン フィリップは我々CIAが掘り出した原石です。それに、あの子はただの情報ハッカーではない」
デニスが言った。
「しかし、現にあの少年はホワイトハッカーとしての稀有な素質を持っている。それだけでも十分でしょう」
「そうだ。未開拓の能力よりも、今すぐにでも使える力を生かした方が将来のためになる。国家にとっても、あの子にとってもね」
喧々諤々と言い争いを続けている彼らのもとにジョンの母親と弁護士が事態の説明を求め、再度訪ねて来ていると知らせが来た。

「どうするんだね? 母親の方はともかく、父親はあのマグナム中佐だぞ」
「何とかしますよ。そのために我々M.G.S(Military Geist Scanners)が存在しているのです」
デニスが含みのある笑みを浮かべて言った。それは暗にこれ以上の口出しは無用だという圧力でもあった。


「何だか疲れた……」
ジョンは部屋に入るとぐったりとベッドにもたれた。
「でも、あれで信じてもらえたかなあ。みんなぼくがやったことで、パパには関係がないって……」

突然、鼻の奥につんときな臭さが募った。鼻血が出る前のいやな気分に似ていた。
「ティッシュペーパーは……」
彼は急いで洗面台の棚にあったそれを取ろうと手を伸ばした。
「う……!」
(これは……鼻血じゃない……!)
彼は口の中に溢れた血を洗面台に吐き出すと激しく噎せた。
「気持ちが悪い……」
蛇口を捻って水を出した。何度か手で水を掬って口をゆすいだが、出血は止まらない。
「誰か……」
霞む視界の中にインターホンが見えた。
彼はそちらに手を伸ばし掛けた。が、意識はそこでふつりと途切れた。

排水溝の蓋が落ち、洗面台の水が溢れた。
止まらない水音……。
不審に思ったウーリーが部屋に入って来た。
「ジョン!」
洗面台の脇に倒れている少年を見つけ、彼はすぐに救急車を呼んだ。


子どもは病院に運ばれた。発見が早かったため大事には至らなかったが、そのことでCIAの組織とジョン フィリップにとっては重大な事態を招いた。

「そう。あの子は病気なんです。なのに、あんな酷いことをして……!」
病院に駆け付けた彼の母親がデニスに文句を言った。
「申し訳ありません。しかし、息子さんの罪の疑いは晴れました。それどころか、彼の持つ才能が我が国にどれほどの貢献をもたらすものであるかを算出することができました。実に名誉なことです。息子さんは選ばれた者として、これから国のために、我が組織で働くのです」
「わたしにとっては国のためにとか名誉とかどうでもいいことです。今はただあの子の身体のことだけが心配なのです」
そう言って母親は泣き崩れた。
「もっともです。もちろん、私共と致しましても、何よりジョン君の身体の回復が一番気がかりなところです。そのための協力は惜しみません」


透明な管を流れる液体は緩やかに下って彼の左腕に繋がっていた。きつい消毒のにおいが鼻をついた。
「ここは……?」
目を開けると、見知った白い天井が広がっていた。
「病院……?」
起き上がろうとして酷い眩暈を感じた。

「あら、目が覚めたの? 駄目よ。まだ起きては……」
新人のナースはジョンを見て微笑んだ。
「ぼくはどうしてここにいるの?」

――ジョン フィリップ、君は重大な軍事機密を持ち出した。これは国家への重篤な反逆だ

(あれは……夢だったの?)
ぼんやりとする意識の中で彼は周囲を見回した。ドアにはめ込まれた窓の向こうに人影が見える。
(デニス……)
何故彼がここにいるのかわからない。だが、ジョンが昨日体験したことは夢ではなかったのだ。
「眠い……」
母親に会いたかった。しかし、その名を口にする前に少年は再び眠りに落ちた。そんな彼の耳元でガイストが唄う。その声はざらついて、耳の奥で響いた。あのゴーッという漣に似た血流に溶けて、ゆっくりと彼の身体の中へと侵入した。


2度目の再発。
データを手にしたエルビン医師の表情は硬かった。
「大変申し上げにくいのですが、これはかなり厳しい状況です。これまでのような化学療法ではもう効果がありません。薬に対して耐性ができてしまっているんです。このままでは4週間もつかどうか……」
「そんな……」
医師の言葉に母親は卒倒しそうになった。

「手立てはないのですか?」
同席していたデニスが訊いた。
「打てる手は一つ。骨髄移植を行うことです。だが、短い期間でドナーが見つかるかどうか……。それに、ジョン君の場合は……」
既に一度臍帯血移植を試みていた。再度の移植となるとリスクが高かった。
「お願いです、先生。何としてもあの子を助けてください」
母親が懇願した。が、エルビンは何ともいえないと告げた。


ジョンは夢を見ていた。父と二人、青い海の底に潜り、美しい魚達の群れを追った。
「パパ、見て! 大きな鮫がいるよ」
「危ない! こっちへ来るんだ、ジョン」
父親が呼んだ。が、彼にはその姿が見えない。
「パパ、どこにいるの? いやだ。怖いよ。助けて……!」
迫りくる鮫の巨大な影が彼をすっぽりと包んだ。

――いやだ! 怖い! やめて……

白いベッドで眠る彼を闇の風が包み込んだ。

――やめろ!

誰にも聞こえない声……。
ガイストは少年の魂を欲していた。深海を行く黒くぬめぬめとした異界の魚のように彼の体内へと浸食し、その生気を奪おうとした。

水槽の中の魚達……。
そこは幼い時、両親に連れて行ってもらったアクアリウム。
そこは本物の海ではない。
造られた海の底で、ガラス越しに人間を見つめる。
「ねえ、パパ、それで魚達は本当に幸せなのかなあ?」
飢えることもなく、天敵に襲われることもない、楽園の中で……。

――魚達は本当に……。

闇の中に浮かぶ黒い左手……。
透ける宇宙の彼方で、少年は奈落へと続く深い海を見ていた。